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豊国神社御由緒略記

御由緒

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 わが池庄に鎖座まします「盟国神社(厄除八幡宮)」は、古来より御神徳あらたかな神社で、主祭神は応神天皇(在位二七0年S三一0年)の御葬霊である。社伝によると、第二十九代欽明天皇(在位五三九年S五七一年)の御代に豊前の国(大分県)馬城の峰(宇佐神宮)に降臨された八幡神(やはたのかみ)を当地にお迎えしたと伝えられ、また古老の説によれば「この八幡宮は宇佐神宮より、当地の四キロ東方に当たる豊国山(現東近江市大覚寺町)の山頂にある大覚寺にお出ましされ、本地仏十一面観世音菩薩とともに鎮座されたのであっるが、下がって聖武天皇(在位七二四年~七四九年)の時に至って、この聖地、池荘村を始め、大覚寺・園・大林・南花沢・上中野・下中野・池之尻・小池・辰巳小路(横溝)・東出小路(小田苅)の豊国郷十一ヶ村を鎮護され、年を追って信仰の中心地として隆盛を極めたのである。

 その後、いつの時にか、応神天皇の母君・息長足姫蓉(神功皇后)を合わせ祀り、更に武内宿宿禰大臣を摂社としてお祀り申し上げたのである。

 当初は神殿楼閣ともに宏大壮麗であり、幾多の社殿も整然と建ち並び、厳かな気が四方を圧していた。然るに惜しむらくは、十六世紀後半、近江に進出した織田氏の兵火にかかり、社殿を始め、神宝・記録ことごとくが焼失したのである。その後、寛政元年(一七八九年)十一月、氏子の熱意によって現在の社殿が復元されたのである。

厄除げの起源と例祭

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 元和八年(一六二二年、徳川二代将軍秀忠時代)、出羽国山形第十四代(一説には十三代)の城主最上駿河守義俊公が大森村(現東近江大森町)に陣屋を置き、代々この地を領有して以来、特に当社を崇敬されたのである。その子義智公、父の後を継ぎ、領内巡視の都度、必ず当社に参詣されたが、俗世に云う前厄の四十一才の時、正月十九日を吉日として幣帛(供物)を献じ、徐厄の大祈願を行い、先祖伝来の弓一帳と菊・桐・葵の幔幕を寄進したのである。それ以来、最上家は代々、燈明料献上日を正月十九日と決めたため、領民はもとより、各地の信者、この日に参詣し、領主の行列を拝観せんとする者、年を重ねるごとに数を増し、ために従来祭礼は四月初めの卯の日に執行されるのが恒例であったが、逆に、正月十九日を本日とし、十八日から二十日を厄除け大祭日と決められるに至ったのである。往古はこの春の大祭に神輿が、豊国山の旧地に渡御せられたが、神輿を担ぐ人々が論争を起こしたので、途中「八の塚」で神輿を土中に埋めたと云う。その後ここを過ぎる者は、皆土中に鈴の音の響くを聞くと伝えられ、これ以降、当社の祭礼には神輿渡御の義を廃したと云うことである。

御分霊

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 当社の除厄の御霊験あらたかなる御神徳を畏み、各地より御分霊を乞われたと伝えられているが、古文書により判明せるものは、遠くは北海道夕張で栗山神社の一社である。

社名

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 当社は往古は正八幡と称し、鎌倉時代に至って「厄除げ八幡宮」と唱え、更に明治二年、「豊国神社」と改称されたのである。明治九年十月村社に列せられ、明治四十一年神饌幣帛料供進の神社に指定される。そもそも「豊国神社」の称号の由来については一つは社伝の「豊前国の宇佐神宮を勧請申し上げたによる。」の分と、又、一つは「大覚寺村の豊国山より移鎮し給う」の説によるとするものがあって、その何れとも定かでない。おそらく、この二者の説が、世の人々の物語として、伝承せられるうちに、融合して知らず知らずの間に「豊国神社」と呼ばれるようになったと思われる。

御祭神(古事記・日本書紀より)

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 誉田別尊は第十五代応神天皇(在位二七0年~三一0年)の御在世の御名である。仲哀天皇(在位一九二年~二00年)の皇子で、御母は神功皇后。まだ御母后の胎内に在らせられる時に、新羅を征伐し給うたので胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも申し上げる。新羅征伐以後、朝鮮との交流が盛んになるや、天皇は朝鮮から外国文化を輸入され、特に大陸に発達した造船・鍛冶・養蚕・縫職・醸造等の技術を受け入れ、我が国の文化の向上発展に尽力されたのである。内政では学問を奨励し、或は池や溝を構築して灌漑の便を計り、大いに農耕を督励され、また大船を建造して、交通の道を開かれたのである。外部に対しては、百済、新羅、高句麗等の動静に意を用いて海外に皇威を伸長されたので韓人達は続々と来朝し、或は大挙して、一時に数千人の帰化する者が出て、外国文明を我が国に盛んに移植したのである。されば天皇は厄除け開運の御神徳と共に、我が国文教の祖、産業の守護神として崇め敬われた。実に在位四十一年の永きにわたり、百十一歳で崩御され、伏岡陵(大阪府羽曳野市)に鎮まり給うたのである。

 息長足姫尊は神功皇后の御名で第十四代仲哀天皇の皇后、応神天皇の御母君である。豊麗な容姿と叡智とを兼備され、御神徳あらたかなる后であらせられた。当時はまだ国内の治安は定まらず、特に筑紫(九州)の熊襲が往々反乱を企て、国民は不安な生活を営むことが多かった。そこで仲哀天皇は、大水軍を率いて、大いに熊襲を撃って帰順せしめられたが、不幸陣中にて崩じたもうたのである。ここに於いて天皇の御遺志を奉じ、武内宿禰大臣と謀り、秘して喪を発せられず、御懐胎の身をもって、男装して海を渡り、急遽新羅を征伐(二00年頃)遊ばされ、これを降伏せしまられたのである。その後、百済・高句麗も臣と称して朝貢するに至ったのである。以来、応神天皇の摂政として転嫁を治められることに実に七十余年。御年百歳で崩じ給い、挟城盾列池上陵(奈良市山陵町)に葬り奉ったのである。

 武内宿禰大臣は第十二代景行天皇(在位七十一年~ニニ0年)より成務、仲哀、神功皇后、応神、仁徳の五代の天皇と皇后に仕え、在官実に二百四十年余の間、内治外交の各般にわたって、大臣として政務を助けたのである。特に神功皇后が新羅に遠征さるるや、その総参謀として縦横の計を樹て、遂に皇威に帰順せしめられた功績はまことに大なるものがある。まさに文武の英雄にして、国家の大功臣と云うべきである。その子々孫々、又恩沢を受け各地に散在して、国家の礎石となり、家門益々栄光に輝き、天下の名家となったのである。第十六代仁徳天皇の五十五年(三六七年)、御年三百歳余の天寿を全うせられたと伝えられている。

厄除けの御神徳

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 この三柱の神々は、何れも国歩難難な秋にのぞみ、それぞれ稀有の長寿を保ちて、よく国難を除き、よく国運を拓きて、我国隆盛の基礎を定められたのは、誠に御神徳の致すところである。されば古来より三神を厄除げ開運の神と崇敬し奉るゆえんである。

 かくて当社は広く厄年男女の祈願社となり「厄除げ八幡さん」の名声は遠近に伝わり、正月十八日から二十日の厄除げの大祭には、南は遠く京阪神地方より参拝祈願の人々、社頭に霊集し、北は近く長浜、彦根、高宮から参拝講を結成して群参し、神の御前で厳粛なるお祓いの御儀をお受けするのである。かくて三が日間に参詣する者三万余を数えると云われている。

 これ、その霊験あらたかなる御神徳によると云うべきである。

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